姑根性

 ずいぶんと以前だけれど、テレビで
「嫁が来たら、絶対、苛めるんだ!
 だって、私があんなに苛められたのに嫁に来て苛められないなんてずるいわ」
というコメントをけらけらと述べている女性がいた。
 あれはヤラセだったんだろうか。





 諏訪耕平の研究メモ:「社会の論理」を持ち込む人々で、なんかこう、いろいろと思ったのだが、その「いろいろ」の終着点が見えなかった。

 狐の王国:自分と同じ苦労をしなくていい人を見るとキレる人々があっさりとそれが何かを指摘してくれた。

自分がそれなりに苦労した分、他人がその苦労をスキップしてる(ように見える)と、その事実を認めたくなくて冷静さを欠いてしまうのだろう。

 なるほどね。
 いやまさに、そうなんだよ。
 それに、考えてみてほしい。
 「社会で通用しない」って言う人が、「社会、社会」っていうけれど、その「社会」って何? って。

 社会で通用しないっていうけど、その「社会」ってのはキミの知っている社会であって、実のところ幻影に近いものなんじゃね? って問い返してみたとする。
 いや、現実には喧嘩になるだけだからできないけどさ。少なくともワタシはしないけどね。

 社会っていうから、一般的になにかこう、普遍的なものがあるように見えるけれど、ひっくり返して「会社」ってしてみたらどうだろう。


 「会社じゃそういう理屈は通じないんだよ!」
と声高に言ってみたとする。

 でもさ、いろんな会社があるわけで。
 キミの会社ではその理屈は通じなくて、キミはボコボコにされたかもしれないけれど、ワタシの会社じゃあそれが普通にまかり通る理屈かもしれない。でしょ?

 でもキミはそのことを認めたくない。
 それは自分が苦労したからで、自分のした苦労を相手がしていないことが許せないから。


 いやな思いを相手がしなくてすんでよかったなぁという心の広さはそこにはない。
 いやな思いを相手がしないことで、社会全体の生産性があがったらいいなぁという気持ちもない。

 なんて不毛なんだろう。


 っていうか、それが不毛だと思うことが出来ないから、許せない! 苦労しないなんてずるい! になっちゃうんだろうな。